あんぱんまん…生前葬…直葬…
2021-02-13


父が亡くなる時、たまたま私だけが病院に居て、医師・看護師と一緒に父の死に際を看取りました。過去の注射針の使い回しによるC型ウイルス罹患によるC型肝炎でのガン、それがだいぶ転移しての死となりました。最後は苦しがり、スタッフが酸素マスクを口にあてがおうとしますが、苦しいようで頭を左右にして身体をよじります。そうした時間がしばらくあってから、医師が脈をとり「…」と言いました。
 死につつある苦しみを苦しみ抜いて父は亡くなりましたが、そこに至る病院生活の中で、父の素朴な頑張りに少し感動もしていた私には「逝けて良かった…」と、安堵の気持ちが強くありました。
 数日後だったか、私が茶の間に居ると、ドアを開けて喜色満面の父が入ってきたので驚きました。「お父さん、亡くなったんじゃないの?!」…。ハッと飛び起きて夢だと気づきましたが、ほとんど同じ夢を家人も見ていたと後で知りました。

 それからいろいろと考えているうちに、ふと気がついたのが上に書いた謬論(あやまった理屈、論理…)です。いや、今の私は確かにそのように考えているのですが、少し譲って「謬論」…。
 他人様の死に目などには人生上それなりに経験するにしても、「自分が死んでしまったときには、自分の死を体験できない。だって、死んでしまっているので。」そうすると「死への不安とか恐怖とかは、生きている時にしか体験できない」。
 生きているということは死につつあること、死につつあることはまだ生きていること…。だから、人は自分自身の死だけは体験できない…。ということで―

 アンパンマン―
「今を生きる ことで 熱い こころ 燃える」という歌詞。
そんな風に考えながら読んでいてあらためて感動してしまいました。
ナチスの強制収容所で生き残った、ウィーンの精神科医のV.フランクル。実存的というよりも体験そのものから出てきたものの見方は、既存の宗教や哲学ましてはそれまでの心理学からは距離があるように感じています。


戻る
[新型コロナウイルス]
[刺激的な心理学]
[社会・社会学・心理学・文化]

コメント(全0件)


記事を書く
powered by ASAHIネット