2020-07-18
「認知の歪み」というキーワードを使って、人の非効率的な言動を修正しようという認知療法ですが、実は根本的なところに誤りがあります。元々は、A.コージブスキーによる「一般意味論」の内容をほぼそのまま取り入れて提起された「論理療法・論理情動療法」から展開して「認知療法」が出てきたのですが、次のような混乱が起きてしまいました―。
一般意味論⇒
人類一般の認識には本質的に(認知システム内に)誤りが組み込まれている。
認知療法⇒
心理的な問題を抱える人たちには「認知の歪み」があるので、それを修正しよう。
つまり、臨床心理士の方などが「あなたには認知の歪みがあります」という言い方は全く不正確であって、まずは「私たち人類にはどうしようもない認知の歪みがあります」と言わなくてはいけない―ということです。
「人間の認識上の歪み」の問題を相談相手の個人的な問題へとすり替えてしまっている…というところに本質的なズレがあります。
一般意味論は1933年に出版された『科学と正気 Science and Sanity』によって、その基本が説かれたのですが、その本は大著であり、また内容は論理学から集合論の陥穽、そして相対性理論まで網羅する内容だったため (翻訳を試みていた先生はおられますが…) 出版を引き受ける出版社はなく、日本語で部分的に紹介する本が出版されただけで時代が過ぎ去ってしまいました。実に残念なことでした。
人間の認識について、よく知られていることとしてはソクラテスの「無知の知」ということが挙げられます。「自分がそのことを知らないで居る、という事実に気がついて、知らないままであることに気がついている」といった意味です。哲学の出発点のように紹介される、基本的な事柄だといえます。
「思考の出発点…」ということについて考えると、それは様々ですが、その際、ほとんど見落とされることがあり驚愕することになります。それは、「出発点…」はともかくして、さて、それでは「その出発点」となったポイントの一つ前にさかのぼることについては、その可能性を含めて「無知のまま放置されている」という事実です。
よく知られている例を挙げてみます。「基準」とは何か―です。「何々は重い」といった普通の文章でもそうですが、「重い」と判断する基準があったわけです。しかし、その基準は暗黙のうちに使われて文章として表出されて「…重いのだ…」ということになりますが、「一体、何を基準として重い」と言ったのかが不明のまま放置されています。
「基準」についてはさらに恐ろしいことが起きてしまいます。「それを重いとした基準が分かったとして」「その基準が正しいモノとして選ばれた、その際の基準は何だったのか…」ということになります。
普通の人はこの段階で意識を失うか、別のことへ意識を切り替えて問題を素通りすることで、日常生活を続けることになります。
「…を基準とするためには、それを基準として妥当だと判定出来るような、より基本的な別の基準が必要となり、…さらにそれを基準とするためには、さらにさらにそれを判断する別の基準が必要となり…」という訳で、無限遡及(むげんそきゅう:かぎりなくさかのぼる)に至るわけですね。
このブログは「テツガクの場」でも何でもないのですが、非常に大事なことは「思考停止」つまり、それ以上にさかのぼらない…という意味で、「思考の出発点が存在して、それと同時に、それより先には遡らないという思考の限界点が存在する」ことに共感してもらえればと思います。
残念ながら私は、コロナ禍の中で蠢く政治の世界の魑魅魍魎に関わり合う関係はないので、とりあえずは外野席から眺めているに過ぎません。その外野席から見えてきたことの一つが「PCR検査を拡充しない」という政府の思考停止状態でした。
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