心理学での一般論と個別。「自粛ケーサツ」などの自己肥大
2020-05-19


「寺子屋 心理学」という内容で4月から始める予定でしたが、コロナ禍の中で頓挫しているところです。名前とブログの内容がずいぶんかけ離れてしまいました。多少、悔いはありますが「まあ、そんなところだろうなあ…」という思いがあって現状に至っています。

 「心理学」についていろいろと喧伝する学者や教師は、そうやって話をすることで仕事になる訳ですが、その内容は基本的に「統計的事実」です。つまり、「多くの場合、一般的な状況では、斯く斯く然々(かくかくしかじか)」ということを吹聴(失礼)しているわけです。
 学者や大学等の教員はそれで口を糊しているわけで、それで講義もできるし本も売れたりメディアに登場するなど、心理学の専門家ということで社会的に通用します。正確には「一般論として通用する」訳です。

 さて。長年、心理学領域に居て痛感することは、そのように「一般的な話」をすれば良い状況なのか、あるいは「個別の、特定の、その人やそのような事件」について扱うのか、という「一般vs個別」という対立についてです。
 個々人にその都度関わる、たとえば臨床心理士さん達は、特定の「Aさん」に関わりその人の問題の緩和や解決の支援に携わる人たちです。したがって、言い過ぎになりますが、進め方などがAさん以外には通用しないかもしれないけれど、とりあえず今はまず対面している「当のAさん」にとって意味があること、役に立つことが重要…という状況があります。したがって、当面は一般論の入る余地はあまりありません。ということで状況の「一般性vs個別性」ということの違いを峻別する必要性が見えてきます。

○ところで、最近は自粛ケーサツと呼ばれる「セイギの人たち」が話題になります。自粛要請の最中に、出歩いたり、マスクをしなかったり、県外などを訪問していると、名前を明かさない誰だか分からない人に恫喝されたり、いたずら書きされたりする被害が起きています。まるでケーサツみたいなので「自粛ケーサツ」ですが、警察関係者の方々に失礼の無いように、ここではケーサツとカタカナ書きです。

  ○一般論として、「セイギを身にまとうことで、自分自身がヒーローになり過激に行動する」というのは、児童向けのテレビ番組の何とかレンジャーと同じ程度に幼稚な反応ですが、自身をセイギと一体化するという「自己肥大」の喜びにかき立てられるので、なかなか止まりません。心理的な中毒に近く、人としてはかなり貧相なあり方の一例です。

 なお、こうした自粛ケーサツ以前に問題が露呈したのが「あおり運転」でした。あまりのひどさに法制化が進んだので、被害者にさせられる確率が減り状況はそれなりに改善されました。あおり運転の人たちもその基本は「自分がセイギである」「正しいことをやっているのだ」という個人的な正当性・セイギが基本になっています。セイギの喜びに自己肥大化して「社会を代表したかのように…」過激な行動に出る…。自粛ケーサツと類似の構造ですね。さらに、「支配・服従」という事柄が何よりも重要だと感じる「権威主義的性格」という、第二次世界大戦中のナチスドイツの性格分析(エーリッヒ・フロム『自由からの逃走』)にも関わってきます―という風に心理学の図式や用語で解説するのが「一般論」となります。


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